昭和四十三年六月十六日 朝の御理解
御神訓 一、わが心でわが身を救い助けよ
信心の心得に「わが心でわが身を救い助けよ」とあります。わが心でわが身を救い助けよ。自分の心で自分の身を救い助けよとこういう訳ですね。
この御教えをどういう風に頂いたら良いか。この御教えを頂きましてから、神様にそのことをお願いさして頂きましたら、「台」と言う字ですね。かたかなのムを書いて口。事の土台になること。信心の土台になること。土台。台という字ですね。ムを書いて口を書くと台という字になる。
これを救い助けるということ。自分の心でわが身を救い助ける。それにはどんな場合でも、無口。何にも言わんですむ。言うなら不平不足を言わんですむとか、又は、言い訳をしないで住むとか、わが身勝手のことを言わんですむとか。そういう、私は不平不足を言わんですむとか、わが身勝手なことを言わんですむとか、又は、言い訳を言わんですむとか言うことは、もう既に、その人は救われておると思う。救われてないから言い訳をせんならん。不平不足を言わなきゃならん事はもう既に助かっていない。
そこんところを御理解には、今日はこう頂くんです。第七十八節。御理解の第七十八節に「腹は借り物というが借り物ではない万代の宝じゃ。懐妊のときは、神の氏子がわが体内に居ると思うて大切にせよ」。腹は借り物と言うが、借り物ではない。万代の宝じゃ。ね、万代の宝。懐妊のときは神の氏子がわが体内に居ると思うて大切にせよ。この御理解の七十八節と信心の心得の「わが心でわが身を救い助けよ」ということはどういう関わり合いが、どういう意味で繋がっておるか。
これは、懐妊というから、女の方だけに限っておるような感じがするけれども、これは、懐妊ということだけではない。良いものが生まれてくる。良いおかげが受けられる。良いお徳が受けられる。それは、自分の腹の中に宿るのである。例えば、腹の立つ問題、いよいよ難儀を感ずる問題。そういうときに、私どもが、「はぁ、おかげを頂いた」。ね、女の方が、おかげで結婚をする。子供ができる。それこそ赤飯を炊いてお祝をするように、困った問題とか、難儀な問題というような、例えば事が起きた場合に、自分の心の中に治める。そして、これを良いものが生まれる前提だと知らなきゃいけない。してみると、お腹は、万代までの宝であることが分かる。心。ここで腹というのは心のことだと思う。腹が小さいとか、腹が大きいとか言うでしょう。あの人は、なかなか腹が大きい。あの人は腹が小まい、腹が小さい。自分で持ちこなしができない。すぐ腹を立てる。すぐ言い訳をする。不平不足を言う。そういう人は腹が小さい人です。ですから、この腹事態がですね、万代までの宝であると言うことを知らなきゃ。この腹を通してでなからなければ、この宝は生まれてこないのです。そこを困った、難儀だ、不平不足を言うところに良いものが生まれてこない。神の氏子がわが体内に居ると思うて大切にせよ。私どもが言うならば、願わして頂いておるおかげが今宿った。私どもが願わして頂くお徳が今宿ったというような心持ちでです、その問題を大事にする人。そこに良いものが生まれてくる。成程、お腹は、腹は万代までの宝であることが分かる。
ところがその、分かっている。これは神様のご都合と言うて分かっている。例えば腹が立つ問題が起きた。不平不足を言わねばならないようなことが起こってきた。ここに本当に言い訳しなければならないような問題が起きてきた。そういうときに、御理解を頂いておると、「はぁ、神様の御都合じゃなぁ」。今こそおかげが宿ったと、思わんでも、これは神様のご都合に違いないと自分の心の中に頂いて、それを合掌して受けておかげを頂けるということはわかる。お話を頂いておると。ここが辛抱のしどころだなぁと分かる。ここが辛抱のしどころだと分かるけれども辛抱が出来ない。ついつい不足が出る。言い訳が出る。わがまま勝手が出る。結局おかげが頂けるところの台。土台というものが、もうすぐそこで崩れてしまう。言わんで済む。それを有難く頂かせてもらう。又は辛抱させてもらう。そこにおかげの土台ができる。無口ができる。それを口に出して言う、そこに土台が崩れる。そうすると腹は万代までの宝でないことになる。
この辺のところを身につけるところに信心の楽しみがあるね。どうですか。ここんところじゃ不平不足は言うちゃならん。ここは、我慢我力じゃいけん、身勝手なことを言うちゃならん。分かっておってもいわなきゃならん。そこに腹の小ささ、と言うか、所謂わが身を救い助けることができない。信心の修行というのはね、そこなんです。信心の修行をしなければね、そういうみすみすここに良いおかげが、良いお徳が頂けれる元を頂いても、その元をお粗末にしてしまう。不平不足を言うてしまう。そこでその、わが身を救い助けるところまで高めていくということ。
それがお徳の元であり、おかげの元であると、本当に分からして頂いたら、それを神様有り難うございますというてお礼が言えれる。もうそこには難儀はない。有難いものばっかりなんです。そういう頂き方が出来れる修行を信心はするのですよ。
今日から夏の信行期間が始まります。健康でありますおかげでこうしてお参りの修行ができます。健康のおかげを頂いておるおかげで修行ができる。
昨日私は四時から十二時までの八時間の奉仕をここでさしてもらうのに、昨日ばっかりは術なかった。しるしかったんです。もう時計ばっかり見ろうごたったんです。もう後一時間というときぐらいになったら、もういよいよしるしかった。それはね、何か頭が割れるように痛い。割れるというか、頭の中にひびが入っていきよるような痛さ。少し熱もあるような感じ。人間はどうかありますとね、もうそれの方へ捕らわれて有難いものも何もそれに吸収されてしまうもんです。
普通だったら、坐わっとれば坐わっとる間、段段有り難うなっておる。十二時にひさ富先生が変わって下さる。変わってくださる時間が惜しいように段々なってくるのに、昨日ばっかりは早よう、早よう来て下さいと言おうごたる。それでもやはり、修行だと思うて一生懸命、まぁ辛抱させて頂いて、昨日は用があっても、便所に行きたかっても立たないで済む修行をさせて頂いた。一生懸命させて頂いた。修行という、修行の目的というのはね、例えば、難儀なことである、苦しいことである。その難儀を難儀と感じんで済むところに修行の願目があるんです。しるしいどころかそれが有難くなるところにその修行が、ある意味合いで成就したということになるのです。
なら私共でも、ここに七時間も八時間も座らして頂くということが、初めから楽ではなかった。大体、ここに七時間も八時間も座っておるのですから、足が痛くないというはずがない。痛い。ところがね、不思議なね、本当に有難く奉仕ができるときにはね、その足が痛まん。この辺に信心の不思議さを感じます。有難いと思うて修行させて頂いたら痛むはずの足が痛まん。ところが、昨日は頭が少し悪かったもんですから、座っておることが術ない、術ないと今度は足までが痛い。
私は苦しいことが苦しいことになると言うのはそういうことだと思う。坐わって居ることが苦しい。その上に足が痛い。頭が痛い。苦しいことが繋がる。ところが、なるほど初めの間は、例えば健康であっても、初めからそれが楽であるということはないけれども、修行させて頂きよるうちにです、座っておるということが、神様の、所謂神前の奉仕をさせて頂いておるということが尊いことである、有難いことであると分かってくる。有難いなぁと思うて座っておると痛いはずの足までが痛くない。昨日はそんな一日だった。
お互いの、これが、心の上にだって同じ事が言えます。自分の心が健康であると、自分の心が不健全であると、有難いことまでが有難くなくなってくる。有難い、たとえばですね、不平不足を言いたかったり、言い訳をしたかったり、わが身勝手なことを言いたい、言わにゃおれないときには今のあなたの心は本当な事じゃないんです。あなたの心が不健全だというときです。自分の心の貧しさを棚に上げて不足を言う。自分自身の心の小ささを棚に上げて不平不足を言う、言い訳をする。心が豊かで、大きく、健全であるときにはね、不平不足を言わんで済むどころか、反対に有り難う成ってくる。何故有難くなって来るかと言うと、今こそおかげの元がわが体内に宿ったと思えるからです。「はぁ、神様はこれによっておかげを下さるんだなぁ、これによってお徳を下さるんだなぁ」と言うことが分かるからです。
心が健全でなからなければならん。ところが、お互いは心が不健全である。場合にはもう不具の状態である。心は片輪である。心がいつも跛ひいとる。心がいつも見えない。真っ暗。心が盲である。だから、探り探りせんならん。心の目が開いて、心が平生で、健全であるときには、それを素直に、まともにおかげをおかげ、有難いことを有難いこととして受けられる。そういうところを信心させてもろうて、気付かせてもろうていよいよ健全になっていくことの稽古をしていくことが修行である。 そこで皆さん。不平不足を言わにゃ居られん、すぐ腹が立つ。本当に自分の心の貧しさを悟らにゃいかんです。自分の心の不健全であることを悟らにゃいかんです。そして、こういう不健全なことではよいものが心の中に宿るはずがない。よいお徳が受けられるはずがない。心が段々信心によって健全になってくる。所謂心が豊かに豊かに有難くなってくる。今まで腹が立ちよった事が、腹が立つどころかお礼を申し上げれるようになってくる。そこに、わが心でわが身を既に救い助けて行きよるのです。
信心をしていてもそういう修行をひとっつもしようとしない人がある。自分の心の貧しさということに気がつかない。気がついとってもなおざりにする。そういう心の健全をいよいよ願わしてもらう信心。それが分かっておっても出来ないところに修行が必要である。修行と言うのはそういう意味で必要なんです。
私共が、いつもが平穏無事ということばかりではない。いつ雨が降るやら、風が吹くやら分からんのである。そういうときに私は、その雨のために困らんで済む、風のために困らんで済む、言うなら、濡れんで済む、折れんで済むようなトレ-ニングが日頃しっかり出けとらなきゃならん。信心の修行とはそういうことなんです。
所謂、腹が立つ、修行不足。言い訳ばっかりする、修行不足。そこに、修行の尊さがあると思う。修行者としておかげを受けることも、お徳を受けることも出来ない。けれどもその修行がです、只何とはなしに無意味な修行であってはならない。もう十年間も朝参りをしよる。十年間もお水をかかりよる。と言うだけではいけない。寒中で水垢離を取らして頂いても、それが有り難うなってくる稽古をしよる。眠たいけれども朝起きの稽古を一生懸命さしてもらいよる。そういう修行さして頂きよる。そして、その修行が心の上に、いよいよ健全を願わしてもらいどのような場合でもそれを有難く受けさしてもらえれる稽古が段々でけてくるから、いよいよ修行が楽しいことになり、確かに腹は万代までの宝であるとして、その宝を受けさしてもらう受け物であるとして、心をいよいよ大事にすることができる。そこんところに私は修行の焦点を置かなかったら、修行の値打ちはないと思う。
今日から五十日間、日頃さして頂いておる修行にもう一つ輪を掛けたような修行をお互いが工夫してさしてもらう訳である。ですから、信心修行。言わば、形の上ではお参りということになりますけれども、この五十日間の間に、自分の心の貧しさとか、不健全なところをいよいよ分からしてもろうて、そこのところをいよいよ、この五十日間で癒していこう。小さいものは大きくして行こう。と言うところにです、私はお参りの修行が、心の上の、そうした修行とが結びついておらなければならん。所謂表行よりは心行をせよと仰る。その表行と、心の上で一生懸命努力する修行とが一緒になって、本当のことが出来るのではなかろうかとこう思う。
「わが心でわが身を救い助けよ」。わが心でわが身を救い助けれれるおかげを一つ頂かなければいけません。それには、先ずわが心がいよいよ、救い助けさしてもらうその土台というのは、自分がどのような場合でもなんにも言わんで済む私に成れるということ。それも、只ぐうぐう言うて堪えておくというのじゃなくて、それは、初めの間はそうかわからん。それは辛抱しとく。けども、辛抱しとって、はぁ言わんでよかったと思う。だから、その稽古がだんだんで来ていくうちに、そのままそれを有難く頂くことができるようになる。
そういう稽古。な-んにも言わんで済む稽古。わが心でわが身を救い助けよとは、どういうことか。いよいよ私共が救われていくその土台というものが、無口。何にも言わんで済む私に成れるということ。しかもそれが、言わんで済むだけではなくて、それがわが心の中に、今神の氏子が宿ったと思うて、今御神徳の元が、おかげの元が今心の中に宿ったと思うて、むしろそれを大事にしていく、実意丁寧にその難儀なら難儀、問題なら問題を大事にしていく。そこからよいものが生まれてきて、初めて、「なるほど、腹は借り物ではないなぁ。万代までの宝である」ということが分かる。
腹は万代までの宝としてのおかげを頂かして頂くために、わが心でわが身を救い助けさしてもらえれる稽古が、日々なされていかなければならない。成して行こうと思うけれども、心が不健全であるためになかなか心の中にはばからん。心の中に治まらん。心が痛む。心がうずく。不健全な証拠である。
そこで、私共が一生懸命修行させて頂いて、心の健全を願わしてもらう。と同時に、願うだけではない、その修行を、まぁ、辛抱さして頂いてから、おかげを頂かしてもらう。そして、修行というのは、苦しいことであるけれども、その苦しいことは苦しいことでは無くて有難いものであると言うところの体認。心で、体で、それを、苦しいことでは無い、有難いことなんだと分からしてもらうところまでそれを進めていかなきゃならん。
私がここで、以前は七時間でしたけれども、七時間なら七時間座るということだけでも、それこそ泣く泣く辛抱であったけれども、それが辛抱していきよるうちに、それが有り難うなって、交代がきてもそれが替わるのが惜しいくらいに有難くならせて頂ける。現在その八時間が、確かに有難い。勿体ない。一寸でも立つことが勿体ない。と思うように、これはトレ-ニングのおかげである。
皆さんが、例えば朝参りなら朝参りがしるしいと思うて居るけれども、そこを辛抱し抜かして頂いておると、朝参りなら朝参りというものが有難いということが分かる。有難いものになってくる。信心修行というのは、修行というのは苦しいこと、けども、その苦しいことが稽古によって有難いものになって行くというところに修行の値打ちがある。これを心の面においても同じ事。去年はこれくらいのことが腹が立ちよったけれども、信心修行させて頂きよるうちにこのくらいのことならば、腹立つ段じゃない、却って有難く頂けるようになった。それを大事にさして頂けるようになったというような稽古が、段々出来ていくおかげを受けていかねばなりません。そこに、わが身がいよいよ救い助けられる、所謂土台ができてくるのです。
この五十日間の修行期間を、そういう意味で、形の上にこうして修行なさる。その修行と同時に心の上にも、一つこの五十日間のね、おかげの土台を作るために、もう兎に角言わんで済む私になろうじゃないですか。第一不平不足を言わんで済む私、わが身勝手を言わんで済む私、言い訳をせんで済む私。そして、それを言わなければおれないときには、自分自身の心の貧しさを、心が不健全であるということを分からしてもろうて、そこんところを「金光様、金光様!」で辛抱していくのです。辛抱していくうちにこの心が癒えてくる。心が大きく、豊かになって来る。言わんで済むようになってよかったというものが生まれてくる。この五十日間の間でです、そういう一つの、無口というかね、そういう土台をね、一つ、しっかり作らして頂こうと、そういう願いのもとに五十日間の修行がなされるなら、いよいよ有難いことだと、私は思います。どうぞ。